不幸のはじまり
 不幸と言うのは、ひとの知らぬまに忍び寄ってきます。それゆえに不幸は、よりいっそう劇的に、不幸としての役割を果たそうとするのですが、家族という繭のなかにくるまれて、幸福を無条件に享受していた幼い頃のわたしにとって、それは、ふつうのひとが感じるものよりもはるかに濃ゆい残酷性をもつものになりました。

 それはわたしが小学校5年生のときのことで、秋も終りに近づいた11月のことでした。わたしが部活を終えて、(当時のわたしは、バスケットボール部とサッカー部に所属し、男の子達と交じって、活発に走り回っていました。)家に向かっていると、とても大きく、鋭い女のひとの声がわたしの家の方向から響いてくるのです。それは凄く威圧的な感じがする声だったのですが、ひどく震えて、今にも泣き出さんばかりの悲愴さをはらんでいました。そしてそれは、わたしにとてつもない不安感を抱かせるものでした。家に近づにつれ、どんどんその声は大きくなっていき、ついには、その声がわたしの家から発せられたものであることがわかりました。

 わたしは、不安で胸を押しつぶされそうになりながらも、家のドアを開けてみると、驚いたことにそれはお母さんの声でした。わたしに話しかけるときの、優しく、温かい声からはあまりにもかけ離れていたので、わたしはひどく混乱しました。玄関先からキッチンの様子が目に入ってきます。そこには、いすに座ってタバコをふかすお父さんと、そのお父さんを見下ろすような感じで仁王立ちになっているお母さんがいました。お母さんは、一見するとまさに仁王といった感じの威圧感を発しているように見えましたが、よくよく見ると、今にも泣きそうな顔をしており、握った手は微かに震えていました。

 お母さんは、泣きそうになりながらも、お父さんに、「裏切りもの!!」とか「人間のクズよ!!」いったような、聞くに堪えない言葉をわめきちらしていました。当時のわたしは、「裏切り者」や、「人間のクズ」といった言葉の意味がいまいち理解できていなかったのですが、お母さんの激しい語調から、それがとても人を傷つける類の言葉であることは容易に想像がつきました。

 一方のお父さんは、最初は、困ったような表情でただただ黙ってお母さんの言葉をを飲み込んでたが、次第に、普段のやさしいお父さんからは想像もできないような、毒々しい表情を見せ始め、ついには立ち上がり、お母さんに向かって汚い言葉を投げつけるようになっりました。二人の言い争いはどんどんエスカレートしていき、ついには物が飛び交うようになりました。

 そのときのわたしは、自分の置かれている状況がまったく理解できず、自分が誰なのかを思い出せないくらい、まったくの混乱の中にいました。二人はわたしの存在に気付くことなく、なおも目を覆いたくなるような諍いをつづけていました。わたしは、いままでわたしを優しく包んでいてくれた繭が、ドロドロに腐ってていくのを肌で感じました。

 二人が言い争いに疲れ、わたしの存在に気付いたときには、もう辺りは暗くなっており、雨が激しくアスファルトを打っていました。二人は、わたしの姿を確認した瞬間、大いに戸惑いました。わたしも、どういう反応をしていいやらわからず、無意識のうちに自分の部屋に逃げ込んでいました。そして、押入れの中に閉じこもり、泣きに泣きました。

 この出来事をきっかけに、わたしの家族は崩壊の一途を辿っていくことになります。
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